サポーターの声 2012A0003

このたびT・Yさん(M・Tさんのお嬢様)から残念なお知らせと共に、以前M・Tさんがお送りくださったご寄稿とご丁寧なメールを頂戴しました。そこで、ここにM・Tさんのご遺稿と共に掲載させていただき、心からご冥福をお祈りする次第です。
M・Tさんとは一度しかお目にかかりませんでしたが、あの感銘深かった3月22日の中村先生の最終講義の日に、奥様お嬢様と共に医科研講堂にお出でになり、その折に手を握り合ってご本復をお祈りいたしましたことを昨日のように思い出します。
M・Tさんの前向きで明るく、しかも周到な闘病の軌跡が、きっと多くの方々のために役立つことでしょう。合掌。

「~免疫力に始まり免疫力に至る~」
 M・T

ガーン
「なぜ私が?」
「死」
「抗がん剤」/「髪の毛が抜ける」
「漢方薬」「サプリメント」
「QOL」
「人生分け目のか・き・く・け・こ→生き生き人生/がんになる人生」
(か→感動/かっかしやすい き→希望/気遣いが多い…)
「自律神経失調症/交感神経/副交感神経」
「免疫力」
「がん患者の会」「市民のためのがん治療の会」
「がん闘病記」
「がん細胞/直径1cmに成長するまで約10年」
「遺伝子のコピーミス/免疫をすり抜けた遺伝子」

私ががんを患った当初、以上のような語句に接しました。
そんな中、なぜがんになったか…、あるいはがんをやっつけるには…の答えに≪免疫力≫が重要な部分を占めることを漠然と認識したものでした。

                     私の病歴

ここで、ドクターをはじめ私のがん治療にたずさわっていただいた方々に感謝の心を込めて私の病歴を紹介します。「市民のためのがん治療の会」に入会し最初のセカンドオピニオンを頂いたのは、原発の舌がん手術から1年半後の2006年11月21日でした。その時、がんをやっつけるのは手術だけでなく進化した放射線治療があることを知りました。それ以後、5回のきめ細やかなご回答を會田会長経由西尾正道先生から頂きました。頭の中が混乱している時のアドバイスは“にっくきがんめ!やっつけてやる!”というポジティブな気持ちになれました。人生で初めて“救われた”ということを実感しました。

● 原発
2005.06 舌がん発症
摘出手術
(大学病院耳鼻咽喉科/頭頸部外科―東京)
● 転移
2005.12 左頸部リンパ節転移
左頸部郭清・右上頸部郭清・気管切開手術
(同上の大学病院)
● 転移
2007.1 右肺に転移(扁平上皮がん/非小細胞がん)
放射線照射および抗がん剤投与
(大学病院耳鼻咽喉科/放射線科―福岡)
(同上の大学病院の主治医の指示により福岡の総合病院での抗がん剤治療)

以後経過観察する中で
● 転移肺がん再発(4年経過後)
2011.1 転移肺がん右肺門再発
抗がん剤投与
(同上の大学病院の主治医の指示により山口の総合病院での抗がん剤治療)
● 喀血
2011.12 喀血
気管支内視鏡検査
(国立病院機構 医療センターー山口)

                  ペプチド・ワクチン

この喀血は、第五の“ガーン”でした。
国立病院機構 医療センターのドクターが、過去6年間に放射線照射・抗がん剤投与を受けているので、新たな治療は限界だと言われました。
これで万事休す。あとは緩和ケアによる対応しかないのかと悲しい気持ちになりました。6年前と違い今の私には“死”は怖くありません(正直には98パーセント)し、やり残したことが2つあること以外には覚悟はできています。
そんな中、年の瀬も押し迫った12月30日衝撃的なメールが會田会長から届きました。またまた“救われた”と思いました。自然と涙が出てきました。
それは、東京医科学研究所の中村裕輔先生のペプチド・ワクチンの情報でした。早速中村裕輔先生のホームページ(Dr YUSUKE NAKAMURA’LABORATORY)を閲覧し、私に合った病院を探しました。
肺がん(転移)の対応病院である岡山県の大学病院に連絡を取りました。ところが、またまた第六の“ガーン”です。万事休す。
それは、私のがんは肺がんではなく原発の“舌がん”つまりがん種は頭頸部がんだということでした。
あらためて、中村裕輔先生のホームパージを念入りに閲覧したところ最終欄に熊本大学病院歯科口腔外科と昭和大学歯科病院口腔外科がありました。ヤッターと思いましたがまだまだ安心はできません。血液型が合わなくてはなりません。早速熊本大学病院を受診しました。
血液検査(2週間かかりました)の結果、ワクチン接種が可能ということになり、早速1月25日(水)から毎週1回水曜日にワクチン接種を開始することになりました。
ところが、4回目を接種した頃(2月15日)呼吸が息苦しくなり、国立病院機構 医療センターを受診したところ、肺門の腫瘍が思ったより早く成長しているとのことで、ステント留置術を2月24日に受けました。これはワクチン接種の好転反応ではないかと思いましたが、ワクチンは3ヵ月後くらいから効果が出るようなので私の勝手解釈でした。
こうなったら腫瘍の成長とワクチンの効果とのせめぎ合いです。ワクチン頑張れ。ケセラセラで行こう。自然体でいこう。これまた免疫力アップかなと思いました。
手術および入院の間、3回ワクチン接種を休みしました。以後、3月14日から5回目を再開しました。

                 會田会長さんの東奔西走

3月1日に會田会長より中村裕輔先生の講演会が3月22日(木)に開催されるとのメールが届きました。丁度、3月21日(水)に6回目のワクチン接種がありますので、熊本空港から一路東京に飛び、中村裕輔先生の講演を聴講しました。
昨年暮れのペプチド・ワクチン情報をはじめとしたこのような會田会長からの情報提供に“救われる”と同時に“感謝”です。幸せます(山口の方言)。
また、3月16日の参議院予算委員会において、新党改革の荒井広幸委員がペプチド・ワクチンの実用化の提言をしました。荒井発言の中に會田会長の紹介がありました。これまた會田会長の要請活動の結果でした。
このように、われわれへの情報提供、中村裕輔先生との信頼関係を基点としたペプチド・ワクチンへの取り組み、ワクチンの法的制度化への要請活動等々、會田会長の世のため人のための粉骨砕身には、頭が下がります。と同時に昨年12月30日のメールにある≪自分で勝ち取ろう≫精神の先達者としての會田会長に、われわれもおんぶにだっこではなく、まさに≪自分で勝ち取ろう≫と行動したいものです。

                  ≪自分で勝ち取ろう≫。
ポジティブ・チェンジで行こう。
免疫力で行こう。

(参考)荒井広幸参議院議員の委員会提言の内容(You Tube)

まだ戦っています
ステント留置術およびレーザー焼灼術を、2月24日から6月4日の間に都合7回受けました。

今のところ、がんは小康状態を保っているようですが、いつ起きだすかわかりません。今後は、NK細胞の活躍に期待を込めて心を確かに生活しようと思っています。

小生は、現在「自然農」という方法での米や野菜作りに挑戦して3年目です。ある程度の達成の域にはあと4、5年はかかります。この社会的使命を含んだ目的を“免疫力”として人生を全うしたいと考えております。

<M・Tさんのお嬢様からのメールです>
會田様

突然のメール、大変失礼します。
私は、M・Tの娘で、T・Yと申します。
會田様とは、今年3月22日の東京医科研での中村先生の講演会後に、父と母と一緒にお目にかかりましたが、覚えておいででしょうか。

このたび、僭越ながら、會田様にお知らせしたいことがあり、ご連絡させていただきました。
去る9月24日朝、父が永眠いたしました。
8月に、會田様より、父の闘病記の全文が会誌に掲載できますとのご連絡をいただいて、本人もたいそう喜んでいたのですが、もうPCに向かう元気もなく、そのままになっていましたのを死後見つけまして、こうしてご連絡させていただいている次第です。
原稿を送付させていただきますので、もしまだ可能でしたら、掲載の方、ご検討いただけますと幸いです。

とはいえ、本文は6月あたりで途切れておりますので、その後を補足させていただければと想います。

ステント留置術およびレーザー焼灼術による入退院を計7回繰り返し、7月30日の血液検査の結果、緩和病棟への入院が決まりました。
その後、8月10日のCT検査で右肺が腫瘍で完全につぶれていることが確認され、ステントをこれ以上入れるのは難しいとの診断が下りました。左肺はきれいなままでしたが、仮に出血し左肺まで行くと致命的となるため、止血剤の点滴が始まりました。また、肺炎にもかかっており、炎症を抑えるため、またMRSA(院内感染)も出ているため、の抗生剤の投与も始まりました。
父は家に帰りたがっていたので、ある程度炎症を抑えた時点で在宅療養を検討することになっており、母もそのつもりで準備を進めていたのですが、父はそのまま退院することはありませんでした。

非常に残念な結果になりましたが、父は最期まで闘う姿勢を崩しませんでした。
退院日を11月15日(何となく、だそうです)に定め、着々と準備を進めていました。
テレビや新聞で情報収集して高血圧の薬を飲むタイミングを調整してみたり、普通食が飲み込みにくければすぐに嚥下食に切り替えて味付けやトッピングして食事を楽しもうとしたり、リハビリの先生に痰を出しやすくする呼吸法や体操を教わればさらに自分で研究、改良したりして、少しずついろいろな困難を克服して行く姿に、幾度となくまわりの人間の方が元気づけられました。
また、ペプチドワクチンの接種に命をかけており、8月は、医師もいい顔をしない中、息子(私の兄)の運転する車で、酸素ボンベを4本抱えて6時間かけて熊本まで出向き、ワクチンを接種してきました。9月も、26日に予約を取っており、医師に何があっても責任は問わないという誓約書(代筆させられました)を準備し、着ていく服や履いて行く靴まで選んで楽しみに待っていましたが、とうとう行くことがかないませんでした。
最期は、母と兄に見守られながら、静かに息を引き取りました。
私は最期の瞬間には間に合いませんでしたが、その前の1週間、怪我で入院した母の代わりに父の病院に付き添い、父と二人きりの穏やかな時間を過ごすことができましたので、悔いはありません。

癌は恐ろしく、父の命を奪った憎い病気ですが、その病にかかった父からいろんなことを学びました。
7年間、立派に病と闘い、最期まで必死に生きた父は、私たち家族の誇りです。
父に恥じないよう、私たち家族も、これからを精一杯生きて行こうと思います。

長文になり、申し訳ありません。
以上が父の最期の2ヶ月間になります。

會田様には、大変お世話になりました。
父のモットーである「世のため人のため」を実践されている會田様の活動に、父はいたく感銘し、励まされていたと思います。
これからも、父のような病に苦しむ人に、光を与えていただければと思います。
末筆ながら會田様をはじめ、市民のためのがん治療の会の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

                                            T・Y